気がついたら下ネタでした。

何も変わることなく、月曜日です。
唯一変わった事といえば、自分が今やっている仕事の期限が刻一刻と近づいっている事でしょうか。もうそろそろやばいので、本気を出そうと思います。
何故か、夏休みの宿題を思い出し泣けてきます。

夏休みといえば、っと繋げていきたいのですが夏休みはいい思い出がありません。
どんな楽しい事や面白い事があっても八月の最後の一週間で相殺どころかマイナスになってしまうからです。仕事を始めてからは毎月末が八月後半のように忙しく死にかけます。
自分の仕事の事はいいとして、夏休みの宿題といえば何故かバラエティーに富んでいた覚えがあります。
算数にプリントに漢字のドリル、本の感想文に一行日記、リコーダーの練習に習字、自由研究に自由工作、美術館に行って感想文を書いて来いって物や夏休み中にプールに決められた回数来いってのもありました。
今考えてみても、これは出しすぎでは無いかと思います。

プリントやドリルはわかります。将来、簡単な計算や漢字は必ず使います。
だがしかし、他はどうだろうか。
リコーダーの練習や習字など、人によるけど大人になったら殆どやらない。
自由研究に自由工作なんて、先生が秋の文化祭で楽をしようとしているのがバレバレではないか。
しかも、自由って一体何を作れば良いのか解らない。しょうがないので、デパートなどに行きみんな似たり寄ったりな無難なものを買い・作り・提出。なんの面白みの無い発表になってしまうのが解りきっている。
何より理解しがたいのが、美術観賞だ。
これは、バカかとアホかと脳みそが腐っているんではないかとしか思えない。
美術なんて、暇つぶしの工作みたいなものなのだ。
だから、人の造った作品などに興味は全く無い。退屈極まりない。
しかし、美術館などはほとんど親と一緒に行くのでパンフレットをもらって帰ることなど出来ない。
理解の出来ない絵や彫刻をみては、「すごいね。」などと心にも無いような言葉を交わし夏休みの貴重な時間を浪費する。なんともったいない事か。しかも、熱帯夜も手伝って夜は悪夢にうなされる可能性が非常に高い。
これなら、まだ一日寝ていたほうが有意義だ。

しかし、勉強が嫌いな自分は美術の授業が大好きだった。美術は2時間〜3時間も使って授業が行われる。
もちろん、その間部屋に閉じ込められたままの監禁状態だが暇つぶしを与えてくれる。
それが、絵だったり工作だったりする。これがまた面白い。積極的に物を作ることは無いが、こういう事が好きな性分なので結構楽しかった覚えがある。特に、絵をかくことよりは石を掘ったり銅版を叩いて形を作る工作のような事が大好きだ。一度賞を取った事もあった。
賞を取った事よりも、苦労して作った作品は特別である。自分の子供のように可愛いものだし何より達成感がある。
しかし、他の人か見ればそれは他人の作品である。自分にとっては宝物のようなものであっても人によってはゴミ以下の物体である。なんの感慨も愛着も無いのは当たり前である。
これに酷似したものがある。
それは、オナニーである。
オナニーとは、自分の中に溜まっている性欲を開放する作業に他ならない。あくまで、オナニーとは自己満足に過ぎず自分から他人に干渉しないものであり、他人から見ればアホである。
これは、美術品にいえることでもある。
美術の作品は、レオナルド・ダ・ヴィンチモナ・リザから、まだ幼稚園も卒業してないような子供の書いた母親の絵まで全てが自己満足である。自分の中の物を吐き出す作業である。
そして、その吐き出した作品に人が刺激された時それは買われる。より多くより深くの欲望を刺激すればそれこそ万札が飛び交うような美術品になるのである。もちろん、今世に出ている美術品の殆どが商業目的で作られたからこそあのような値段で売れたりもするわけだが、それはオナニーの中にも、もちろん存在する。エロ本やエロビデオがそうである。オナニーとは基本的に自己満足の行為である。しかし、オナニーをしよと思っても自分の中の想像力が足りかったりその他もろもろで個人では解決できな場合も多々あると思われる。このような場合は外からの刺激が必要である。エロ本やエロビデオは基本的に自分のオナニーを売買まで発展させたものである。人々は自分の中の欲望を本やビデオに刺激され買ってしまうわけだ。

以上の事から、美術とオナニーは非常に似た存在であることが解ってくれたと思う。
だが、そんな事はどうでもいい。
問題なのは勢いに任せて書いてしまったので、前半と後半いやこの日記が一体なにを言いたいのかわからない事である。
解らないのでない、意味など無いのだ。
そして知った。意味も無く何の主張も無いこの駄文こそオナニーなのだという事を…。

イエッペ!