暇つぶし思考。
いきなりですが、もう2005年終わっちゃうのに何をしているんだろうと思うわけですよ。
もちろん、思っているのは僕ですが、皆も思いませんか?
平日は仕事仕事で時間を潰し、帰り道ではあちらこちらに寄り道で時間を使い、偶に映画なども見て、ちょくちょく本屋による。
休日は本だ、ゲームだ、酒だと時間を潰し。偶に、友達とテーマパークなど行きさんざん遊び、時には旅館だペンションだといいながら泊りがけで飯や酒を食い散らかし、ワイワイ騒ぐ。
これが今年の平日、休日の過ごし方だと考えると。僕は泣きなたくなる。
確かに、楽しい毎日です。
特に何の不満も無く、娯楽に費やす日々。
しかし、改めて考えてみるとこれは不味いんでないかい?
日々、目的も無く、目標も無く、拘りも無く、好みも無い。
将来的な展望も無く、その場その場の娯楽を求め、青臭い言葉でいえば刹那的な快楽を欲し毎日を過ごしていると言う事は、僕はこの一年間暇つぶしにしか使ってなかった事になってしまう。
興味はあっても、実はその感情自体も暇を潰すことだけの為にあるのではないか。
好きなものがあっても、苦労をしてまで続けるだけの気概も無く意味も見出せない。
そして、その場しのぎの思考を続けていると10年、20年後でも立場やなんやらが変わっていても、本質的には何にも変わらないのでないか。
と言う事は、その場その場の娯楽の追及は、結果的には思考停止状態と何ら変わるものではないのではないか。
いや、しかし僕は本質的に人間に生きる意味など無いと考えている悪漢なので、人生の本当の意味とは、死ぬまでの暇つぶしなのかもしれないと考え始めたわけだ。
しかし、もし人間に生きる意味があり使命といわれる事があるとするならば、僕が「人生とは暇つぶしなのではないか」と考える事以外の理由や使命があった場合、僕に生きる意味や使命を与えてくれたモノを冒涜する行為なのかもしれない。
いや待てよ、一般的に考えるなら生きる意味や使命を与えてくれたモノなど存在する訳がない(個人的な価値観)。
そもそも、生きる意味や使命などは人間が勝手につけた事ラベルである。あるかどうかもわからない。
と言う事は、生きる意味や使命などと言うものは、後付けなのではないか?
そもそも、人生とは生きる意味や使命ありきで考えるのではなく、その人が行った事に対して生きる(生きた)意味や使命が付けれるものではないのか?
そうすると、色々なことは端折るが、キリストは神の子だったから処刑されたのではなく、処刑されたから神の子になったのでは無いか?
安倍清明は、狐から生まれたから力を持っていた訳でなく、力を持っていたから狐から生まれたのではないか?
と言う事は、僕が考えている人生とは暇つぶしではないのかという考えは、結果を出すか死ぬまで考える事により、僕の生きる意味や使命になるのではないだろうか。
うむむむむ〜。
これは大変だ。
って事を暇つぶしに考えてたりするほど
脳が疲れてます。
年末なんてクソ喰らえ〜〜〜〜!!!!!!